読んだ本

原っぱと遊園地〈2〉見えの行き来から生まれるリアリティ

原っぱと遊園地〈2〉見えの行き来から生まれるリアリティ

新建築での青木淳さん×西沢立衛さんの対談(「図式とルール」)は発売当時にも目を通していたのだけど、そのときに感じたおふたりの間の相違について再び考えてみることになった。
端折って書いてしまうと、基本設計から主になる図式を貫くSANAAに対して、最初の図式を読み替えながら建築をつくっていく青木さん、ということかな。
それは《青森県立美術館》の地面と建物が凹凸に噛み合ったようなスケッチで提案していた最初の図式が主にならずに、また違う次元の抽象的なルールで建築を成り立たせようとしている話からきている。
そのあたりを指摘されているのか、コンペの審査員でもあった伊東豊雄さんがその年のGAの座談会で、「実際に見ると、青木さんがどういうことがしたかったのか、良く解らなかった」と発言されている。
GA Japan―Environmental design (84(2007/1-2))

GA Japan―Environmental design (84(2007/1-2))

私は一昨年にこの美術館に訪れているのだけれど、その伊東さんの言葉がずしりと重く感じられて、なんとなく薄曇りの靄がかかっているみたいに捉えてしまう場所になった。
目に見えたものは美しくて楽しかったけれど、真に触れるところには向き合いたくない気持ち。
今になってINAXの写真集や付録についていた20分あまりのDVDを眺めながら、青木さんがやりたかったことを考えてみた。
青木淳 JUN AOKI COMPLETE WORKS〈2〉青森県立美術館

青木淳 JUN AOKI COMPLETE WORKS〈2〉青森県立美術館

あのレンガやアーチ窓、あらわな構造体といった仕掛けは、「美術館=遊園地」じゃなくて「美術館=原っぱ」をつくり出したかったからなのかもしれない。
そういえば階数の表示がなかったし、平面も捉えづらかったけど、それは青木さんが目指された空間の質をつくる一要素だったのだと思う。
これはまったくの私の想像なのだけど、コンペで勝負するときには、最初の凹凸の図式が有効だったんじゃないか。
でも青木さんがやりたかったのは、後で付加していった抽象的なルールの方だった。こちらでは勝負できないと踏んだのでは?
確かにSANAA、というより西沢さんの論理は明快だと思う。まさに建築がそうだし、講演会の受け答えなんかにしても分かりやすい。
それが公共施設なのだとしたら、なおのこと万人に分かりやすく、そしてシンプルな強さが求められるのだと思う。
そちら側に振り切った方が、きっとうまくやりこなすのだろう。
でも私は青木さんの曖昧というか抽象的な感覚にも惹かれてしまう。
「原っぱと遊園地2」の3章では、現代美術や磯崎さんの論文についての文章がおさめられていて、青木さんの感覚的なものでいっぱいになった。
先の対談のところで、西沢さんはこう指摘されている。

そう、第一段階の図式決めより第二段階の方が青木さんにとって面白いわけですよね。でももし、青木さん自身がもっと楽しくやれるような第一段階があるならば、そっちの方が青木さん的世界なのではないかと思うんです。そういうような活き活きとしたルールは、青木さんの場合、ダイアグラムじゃなくて、もっと連続的、映像的なものなのかと。それが第一段階から、基本設計の段階から現われたらどうなるのかすごく興味があります。

うーん、確かに。
こんな発言を読み返してみると、青木さんが考えられていることも、西沢さんの手にかかったらもっと分かりやすく届いちゃったりするのかなとも思う。
青木さんの方が剥けきれてないというか。
どっちつかずのまま、現時点ではそんなことをつらつらと考えている。


北欧デザインをめぐる旅―Copenhagen・Stockholm・Helsinki

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ロシア闇と魂の国家 (文春新書 623)

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